悲しみの太宰 1-1
「私たちは、生きてさえすればいいのよ」(「ヴィヨンの妻」)
序
あれから十五年以上の月日が経過してしまった。光陰矢の如し。
1
あの日、太宰に会いたい、という思いがふとしたきっかけではじけたとき、太宰はすぐ傍らにいた。東京・三鷹駅南口から玉川上水沿いにほんの数分歩いたところにめざす入水場所はあって、街灯の薄ぼんやりした明かりによりいっそう色濃く感じられる闇に目を凝らすうち、道路脇の植え込みから小さな黒い岩の塊が浮かびあがった。津軽から運ばれてきたという「玉鹿石」にまちがいない。桜桃忌の翌日とあって、多少のにぎわいを予想していたが、周囲はまったくといってよいほど人通りが絶えていた。湿気のきつい夜の空気が首筋にねっとりと貼りついてくる。幅五メートルのアスファルト道路をわたり、入水場所に近づくと、川べりの茂みは思いがけず深いことがわかった。身を乗り出すようにして金網の向こうをのぞき、かつて「人喰い川」と呼ばれ、鉄砲水で知られた上水に身を躍らせる太宰の姿態を思い浮かべる。濁流の音に混じって、だれか人知れぬ笑い声が聞こえてきそうな気がする……。そこでふとわれにかえった私は、再び道路を横切り、「玉鹿石」の前に立った。この入水場所に足を運ぶきっかけとなった胸のわだかまりがいつのまにか溶けている。と同時に、ある奇妙の思いが胸のうちに立ちあがってきた。太宰は、私たちのために、私たちの身代わりとなって死んだのだ……。
私の太宰熱は、その夜にはじまった。家に帰るなり、さっそくウェブにアクセスし、太宰、入水場所と検索窓に入力する。するとたちまち、早春の上水のほとりにひとり力なく腰をおろす浴衣姿の太宰がモニター画面に現れた。だが、その顔の表情までしっかりと見届けるまでにはいたらない。向こう岸との距離は一〇メートルあるだろうか。彼が入水した六月中旬といえば、鬱陶しいほどの緑をまとった桜の枝葉が、梅雨をたっぷり呑みこんだ上水の川面すれすれまで重くしなだれかかっていたはずである。
正直に告白しよう。
二〇〇九年二月に還暦を迎えるまで、私はまともに太宰と向かいあったことがなかった。記憶にあるのは、学生時代に読んだ「走れメロス」と「ヴィヨンの妻」の二作にすぎない。還暦を機というわけではけっしてない。ただ、時のめぐり合わせに感謝しながら、初々しい気持ちでまず「斜陽」を手にし、次に「ヴィヨンの妻」を読み、そこから「人間失格」に挑戦した。「人間失格」は、過去四〇年近く食わず嫌いで避けてきた小説といっても過言ではなく、その「人間失格」をぶじ読みとおせたことで自信が生まれた。そこには、ほかでもない、太宰の読者の一人になることができたという歓びも加わっていた。あとはもう、畏まらず、余裕をもって、少しずつ読み進めることができた。素人の私に道案内の役割を果たしてくれたのが、長部日出雄の太宰伝『桜桃とキリスト』(文藝春秋)である。夜、眠りに落ちるまでのわずかな時間を利用し、毎日欠かさず数頁を読み継いでいった。
最初に手にした「斜陽」との出合いは幸福そのものだった。
朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
『あ』
と幽かな叫び声をお挙げになった。
(青空文庫 以下引用は同じ)
まるでチェーホフのドラマではないか、と思った。だが、語り手の弟直治の告白がはじまるラストに近い場面ではもう涙を抑えきれなかった。いわく言いがたい至福の思いとノスタルジーの甘痛い感覚が同時にわき起こってくる。
東京の冬の夕空は水色に澄んで、奥さんはお嬢さんを抱いてアパートの窓縁に、何事も無さそうにして腰をかけ、奥さんの端正なプロフィルが、水色の遠い夕空をバックにして、あのルネッサンスの頃のプロプィルの画のようにあざやかに輪郭が区切られ浮んで……(「斜陽」)
「水色の遠い夕空」――私はその夕空をどこかで見たことがあると思った。しかしそれがいつのことだったかは、どうしても思い出せない。「お嬢さん」を胸に抱く奥さんの姿が、なぜかしら私の母の記憶にもつながっているような気がして、その温もりが私の体にまで伝わってくるようだった。作者太宰の心にいまイメージされているのは、だれからも羨まれることなく、だれにも侵すことのできない聖母子の姿。それこそは、直治と同様、かぎりなく深い傷を負った太宰がどこまでも憧れ、現世ではついに手にすることのなかった絶対愛のシンボルだったのである。(つづく)