2025 11/26

悲しみの太宰 2-2

エッセイ

 2

 学生時代の私には、「所有」にまつわる生理的感覚には理解が及ばなかった。だから、「ヴィヨンの妻」にも、それほど強く心を動かされることがなかったのだろう。むろん、それが、太宰という現実の肉体によって演じられた「自伝」の一部であるという事実も見えてはいなかった。だから、還暦をこえての「ヴィヨンの妻」の再読は、かなりショッキングであり、かつ扇情的だった。ヴィヨンの妻が、深夜、夫の不在の夜に訪れた若い酔客との交情を告白するラストの部分である。

 そうして、その翌る日のあけがた、私は、あっけなくその男の手にいれられました。

 衝撃的なのは、その語り口であり、その軽さの感覚である(「手にいれられました」)。ここに暗に示されるのは、またしても原始的な共同体による共有のモチーフである。「ヴィヨンの妻」が描き出すのは、「人間失格」とは異なり、現実というヴェールの向こう側で起きた、第三者によっては「認知」されえない出来事である。認知する主体がない以上、「恐怖」を感じる主語は生まれえない。「人間失格」の葉蔵に代わって、「古代の荒々しい恐怖」の犠牲者となるのは、読者である。そもそも「恐怖」は、認知の産物としてある。では、「恐怖」は、ほんとうに「認知」の結果としてしか起こりえないのか。むしろ「認知」という事態に立ちあわされる不安にこそ、恐怖の正体は宿っているのではないか。なぜなら、「認知」とは一つの結果であり、結果である以上、カタルシスの入り口となりうるからである。カタルシスが約束されない、出口のない恐怖がかりに存在するとするなら、それはまさに、「ヴィヨンの妻」が描き出す恐怖である。その不気味さは、何よりも「恐怖」が持続しつづけている点にある。「ヴィヨンの妻」には、太宰の貴族意識を支える「忠義」の観念など露ほども存在していない。その、恐るべきしたたかさ――。読者の前で、「古代」の恐怖のなんたるかを演じてみせた「妻」は、ほとんど冷徹ともいえる内面を鈍く光らせながら、さりげない口ぶりで言う。

「(前略)私たちは、生きていさえすればいいのよ」

 太宰を絶望に陥れるのは、この一言である。太宰にとって生きる支えとは、ひとえに、生が、恍惚に満ちていることだ。にもかかわらず、太宰は、「妻」に、右のようなセリフを吐かせた。なぜなら、そう吐かせるしか、救いはなかったからである。では、なぜ、「生きていさえすればいいのよ」という言葉が、太宰をそれほどの「絶望」へと駆り立てるのか。それは、ほかでもない。「信頼」が存在しない以上、「生きて」いくことに価値は見出せないからである。信頼の崩壊は、初めから生きるに値しない人生におけるもっとも象徴的な出来事である。他方、信頼の崩壊という罪を、だれよりも重く背負っていたのが、太宰自身でもあった。その堂々めぐりから彼は永久に逃れることができない。
 太宰の恐怖をめぐる真実とは次のようなものだ。恐怖は持続するが、恍惚は持続しない。そして恍惚は、信頼のなかでのみ持続する。太宰にとって、信頼=恍惚を体現してしかるべき存在が「女性というもの」であった。女性の最大の存在理由はそこにあった。葉蔵は、アイロニーをこめてみずからの絶望をこう告白する。

 女は引き寄せて、つっ放す、或いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、邪慳じゃけんにし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる、女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないかしら、その他、女に就いてのさまざまの観察を、すでに自分は、幼年時代から得ていたのですが、同じ人類のようでありながら、男とはまた、全く異った生きもののような感じで、そうしてまた、この不可解で油断のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした。(「第二の手記」)

 (前略)女性というものは、休んでからの事と、朝、起きてからの事との間に、一つの、塵ほどの、つながりをも持たせず、完全の忘却の如く、見事に二つの世界を切断させて生きているという不思議な現象を、まだよく呑みこんでいなかったからなのでした。(「第二の手記」)

 では、この「見事に」切断された二つの世界を、どうすれば一体のものとして接続できるのか。逆に「女性というもの」のなかに、どうすれば、連続性を探り当てることができるのか、三八年の生涯、太宰は、つねにその内在する連続性を探し求めてやまなかったように思える。(つづく)

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