2023 1/20

「愛」の詩と真実

ウクライナ戦争が日ごとに末期的な様相を見せるなか、ロシアの文化それ自体が、侵略者の手先、いや侵略の共犯者であるかのような言説もまた深く根をはり始めている。伝え聞くかぎり、ヨーロッパの状況が深刻である。ロシア文学に半世紀以上関わってきた私でさえ、時としてキャンセルやむなしの思いが噴きだすことがあるくらいだから、ある意味でこの傾向は、避けては通れないプロセスと言うべきなのかもしれない。
ところが、そんな状況のなかにあってなお、ロシア文化に対する強い哀れみ、いや愛おしさにも似た感情がこみあげてくることに気づく。そんなとき、私は素直な気持ちで、ロシア文化に貢献してきた人々もまた犠牲者なのだ、という理解に立つことができる。ソ連時代の抑圧的な体制のなかで無残な死をとげた芸術家は、それこそ枚挙にいとまがないが、私自身の心に染みついた「不幸慣れ」のせいもあって、その多くに目を瞑り、真剣に向かいあうことを怠ってきた。
最近、ロシア生まれの詩人で1987年のノーベル文学賞に輝いたヨシフ・ブロツキーの詩を一編のみ翻訳する機会があった。タイトルは、「愛」(“Любовь”)、MBのイニシャルをもつ女性に捧げられた愛の歌である。高踏的スタイルと卑俗なユーモアが入り混じる独特の世界で知られるブロツキーが、愛の歌を、はたしてどれほど真摯な思いで書きつづったのか、好奇心が働いた。訳しはじめ、想像以上の難解さに第一行から躓いた。「ぼくは今夜、二度、眠りからさめた」とある。なぜ、二度なのか。たんなる事実の記述に過ぎないのか、あるいはそこに、何かしら隠された意味、隠された仕掛けが施されているのか。そして最後まで訳し終えたところで、結局のところ、MBという女性への感情の正体がつかめない限り、この詩の根本理解はおぼつかない、と感じ、ウェブ上でできる範囲の情報収集にあたった。
ブロツキーは、生涯にわたって愛の詩を数多く残し、そのほとんどがこのMBに捧げられていることがわかった。なかでも謎に満ちた作品が、この「愛」(1971年作)。ウェブの記事の一つには、「もっとも強烈な(心をゆさぶる、とも読める-注筆者)5つの詩のうちの一つ」とあった。1962年、ブロツキーは知人宅でMBと会い、たちまち意気投合する。だが、2年足らずして彼女の裏切りが露見し、それから7年、具体的には1972年の亡命にいたるまで、ときに自殺未遂をおかすほど苦しみを嘗めた。要注意人物として当局からマークされるブロツキーを、MBはどこか覚めた目で見ていたのか。その間、彼は、極北の地で、18か月に及ぶ強制労働を余儀なくされており、初めから「敗者」を運命づけられていたのも同然だった。
伝記的事実を知ることが、詩の読解にどれほど役立つかわからない。何を知ることもなく、純粋にその詩に向きあい、その奥行きを楽しむ読み方もむろんある。いや、それこそが唯一正当な読み方というべきなのかもしれない。だが、伝記的事実や歴史的な背景を知ることが、純粋なテクスト読解とは次元を異にする歓びをもたらしてくれることも確かである。いや、伝記を必要とする、伝記があってこそ魅力を輝かせる詩人も存在する。文化人類学では、しばしば「文化の三角測量」(川田順造)という用語が使われるが、ロシアの芸術を考える際、私はいつも、芸術家とテクスト、そのテクストが成立した歴史的背景(ポドテクスト)という三者の関係性に目を向けることにしている。詩が「発生した」現場を知ることで、詩が「発っていた」原初的な輝きをじかに経験するためである。
1965年元旦、当局の目をくらますためにモスクワに身を隠したブロツキーは、知人のDBにMBの世話を頼む。DBと一夜を共にしたMBは、明け方、彼の別荘のカーテンに火を放ち、こう叫んだ。
「なんてきれいな燃え方!」。
この一事で、友人たちはDBとMBの裏切りを知り、その噂は、まもなくブロツキーの耳に届いた。愕然とした彼は、逮捕の危険も顧みず、レニングラード行きの列車に乗り込んだ……。
過去何年にもわたって、これは私の領域ではない、と思いつづけ、敬して遠ざけてきたヨシフ・ブロツキーだが、一つの詩の翻訳が、一つの伝記的事実が、彼にたいする気持ちを大きく変えようとしている。享年55。死因は、心臓発作。このあまりにも早すぎる死が示しているのは、残酷なロシアの冬であり、ウオッカの存在であり、国家の圧力であり、そして何よりも失意である。1972年6月、故国を去る彼が携えた革のトランクには、ねじまで解体されたタイプライター、敬愛する詩人W・H・オーデンへのプレゼントとして用意した二本のウオッカ、そしてジョン・ダンの詩集が収められていたという。しかし亡命は同時に、呪わしき宿命の女性から逃れる唯一の手段でもあったはずである。

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