悲しみの太宰 12-3
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忍従を重ねる人妻の心に忍び寄る誘惑――。それは、過去の小説や戯曲に繰り返し描かれてきたばかりでなく、現実の人生においても、決して珍しい光景ではない。太宰がこのモチーフに強いこだわりを示したのは、そこに読者の好奇心を刺激する格好の主題を見出していたからだろう。しかも太宰には、読者が「太宰」――あるいは「堕罪」――という一種の色眼鏡を通して、この戯曲世界に入り込んでくることへの、したたかな計算さえあったように思われる。
しかし、仮にそうした色眼鏡を取り払い、作品そのものを曇りのない目で読むならば、読者はかなり異なった印象を受けるのではないだろうか。事実、『冬の花火』と比べると、『春の枯葉』は、戯曲としてかなり脆弱な印象を免れない。わずか一時間ほどのドラマの結末が、主人公の急性アルコール中毒死というのも、いささか生煮えで、唐突に映る。多少独断的な言い方をすれば、中毒死は一つの「事件」としては成立しても、ドラマの必然的な帰結としては成立しにくいのである。
にもかかわらず、『春の枯葉』には、読む者の心を強く惹きつける何かがある。それは、単に作者が太宰治であるという事実によるのではない。この戯曲そのものが、太宰という一人の人間の赤裸々な苦しみを、ほとんど丸ごと呑み込んで成立したドラマだからである。
戯曲作りという点では、太宰はチェーホフほど忍耐強くもなければ、ストイックでもなかった。しかし、そこで扱われている主題は、チェーホフに劣らず深く倫理的である。なかでも興味深いのは、この戯曲がチェーホフと同じく、出口のない、いわば「堂々めぐりの恋」を描いている点である。
第一場で前面に押し出されるのは、いまや野中家の主となった弥一に接近し、妻・節子との関係にひびを入れようと企む菊代である。とはいえ菊代は、疎開先で出会った田舎教師との恋に、さほど大きな幻想を抱いていたわけではない。むしろ、どこにも行き場がないという自覚によって嫉妬と苛立ちへ追い込まれ、その結果、自暴自棄にも似た行動へと駆り立てられているのである。
第二場では、出口を奪われた女たちの抵抗を象徴する存在として、奥田の母親にスポットライトが当たる。
「うちで使っていた色の黒い料理人と通じて、外聞が悪くなって自殺したのだ。だから、妹の菊代の本当の父は、どっちだかわからない。」
では、ここに、いささか唐突とも思える奥田の母親の不義というモチーフを導入することによって、太宰は何を示そうとしたのだろうか。
一見すると、自殺した奥田の母親の存在は、「有史以前から」の女性の強さを語ろうとするこの戯曲の主張と、著しく矛盾しているように見える。しかし、根本のところでは、両者は必ずしも矛盾していない。むしろ野中にとって、奥田の母親の自死は、ある意味で一つの救いを意味していたのではなかったか。
なぜなら、野中――すなわち太宰――にとって、不義に対する自罰行為としての自死は、一人の人間が示しうる最高度の誠実さ、その最後の証として受け止められていたはずだからである。それゆえにこそ野中は、義母の頑なな否定にもかかわらず、あくまでその自死説に固執したのである。
さらに、奥田義雄と菊代が父親違いの兄妹である可能性を示唆することは、同じ「奥田」を名乗る兄と妹のあいだに存在する精神的な、そして究極的には決定的な差異を際立たせるうえで、きわめて有効な仕掛けとなった。
仮に、この「色の黒い料理人」が文字どおり黒人を指しているのでないとすれば、その男の「黒さ」は、単なる身体的特徴を超えて、ひとつの象徴として読む余地を与えてくれる。すなわち、それは既成の秩序や道徳から逸脱しようとする、いわば「アナーキー」の血の色。奥田の母親から菊代へひそかに受け継がれたもの、それこそはまさに、この秩序への不服従、そして逸脱への衝動だったのである。(つづく)