2026 9/30

悲しみの太宰 12-2

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 「春の枯葉」は、少しおおげさな言い方をするなら、太宰の敗北宣言、いや、より正しくは、敗北宣言の一つである。最晩年の太宰は、その後の作品で、しばしば自らの敗北を宣言しつづけてきた。「斜陽」、「人間失格」などのタイトルがそれを裏付けている。太宰が、一連の敗北宣言においてたどりついた一つの究極の認識とは、「有史以前から」の女性の強さである。なぜ、女性の強さが、太宰にとって、敗北の証となるのか。端的に言ってしまえば、女性とは、ある意味で、太宰の(全能の)ナルシシズムが、最終的に屈服を余儀なくされた難攻不落の砦だったということである。では、太宰にとって、「強い」とは、どのような意味をもっていたのか。黙々と孤独を耐えつづけていく女も、孤独に耐えきれずに不倫の道に走る女も、例外なく強い。それは、戦前も、戦後も関わりなく、文字どおり、「有史以前から」変わることなく存在しつづけてきた、と野中は言うが、その感慨は、太宰自身の本音でもあったろう。しかし、戦前、戦中の太宰には、その真実が必ずしも正確には見えていなかったようである。野中の言葉を思い起こそう。

  雪の下から現われたのは青草だけじゃないんだ。ごらん、もう一面の落葉だ。去年の秋に散って落ちた枯葉が、そのまんま、また雪の下から現われて来た。意味ないね、この落葉は。

 「有史以前から」とは言わぬまでも、近代日本の社会に、幾重もの深さをもって蓄積されてきた女性の強さ、その発見こそが、「春の枯葉」で表明された真実だったのである。女性の強さは、保守、封建主義の強さ、後進的な東北の強さであり、なおかつ、「雪の下から現われた」青草でもあれば、同時に「意味ない」枯葉そのものの強さでもあった。そして、それと反比例するかのように、野中と、野中がめざしてきた理想(おそらく社会主義の)は、すべて「春の枯葉」のように「意味」なき存在と化したのだった。
 ここで注意しなければならないのが、菊代の存在である。野中の自虐的な言いぐさに「声立てて笑う」菊代は、一見、野中の同志として振る舞っているかのように見えるし、野中もまたそのような考えに安住しているが、それはたんなる思いこみにすぎない。ヒステリックともいえる激しい気質の背後に、小悪魔的な色気や狡さを漂わせる菊代もまた、「強い」女性のシンボル的存在であり、その意味では、野中とまさに対極の位置にある。(つづく)

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