エッセイ
人間の根源を問いつづけた作家 加賀乙彦追悼
生命とは何か? 悪とは何か? そして神とは? およそ人間存在の根幹に関わる問いをめぐって愚直ともいえるほど真摯な問いを発しつづけた作家、それが加賀乙彦である。彼の訃報に接し、文字通り「巨星落つ」のひと言が脳裏をよぎった。むろんここには何ひとつ誇張はなく、加賀文学を愛する読者がいま一様に抱いている感慨だと思う。
数年前、一大決心して、デビュー作『フランドルの冬』から『雲の都』にいたる七大長編読破に挑戦した(うち何編かは、再読だった)。そこで圧倒的な陶酔の時を味わった。そしてその陶酔の奥から見えてきたのは、「愛国」という絶対的価値の崩壊に見舞われた少年が、新たな生命観にめざめ、大いなる普遍性の高みへと昇りつめていく精神のドラマだった。敗戦時の心境について「僕の人生は真っ二つに断ち切られた思いがする」(菅野昭正氏との対談)と語り、自死まで覚悟した加賀。戦後約80年間、さまざまな思想潮流をかいくぐりつつ、国家や暴力の前で「黙過」される人々の悲惨を描き続けた。
「黙過」 ― 黙って見過ごすこと。では、その主題の源泉はどこにあったのか。
いうまでもなく、彼が若い時代、精神科医として任にあたった東京拘置所での体験である。
「黙過」の主題は、改悛した死刑囚の悲劇的な最後を描く『宣告』や、無実の罪で死刑を宣告された男の姿を描く『湿原』で取り上げられた。生涯にわたって死刑廃止論者としての主張を曲げることはなかった。晩年の2部作『永遠の都』『雲の都』では、より高い視野から20世紀日本の経験を壮大な「家庭交響曲」へと結実させた。彼がこうして、長編小説を拠り所としつつ限りなく私的な体験をそこに含ませたのは、「私」の記憶こそが、「断ち切られた」自己を普遍性の高みへ導き、最終的に文学を文学たらしめる唯一無二の力と認識したからだと思う。
加賀はある時、静かな笑みを浮かべ、「作家になるには、現在の自分を全て捨てなくちゃだめなんだ」と諭すように私に語った。超人的な知力を授かった彼は、さながらその幸運を負い目とするかのように全てを捨て、文学の道に立った。そしてそうした無私の精神を培ったのが、ほかでもない、トルストイ、ドストエフスキーの文学との対話だったのだ。
驚かされるのは、加賀文学の持つリアリズムの力である。『永遠の都』における東京大空襲の描写が特に印象に残る。しかも彼はそこに、『カラマーゾフの兄弟』を思わせる人間臭い愛憎のドラマを織りこみ、見事なミステリー文学に仕立てあげた。とてつもないドラマツルギーの才の持ち主だった。
戦争と疫病という不吉な暗雲に覆われた現代、加賀の文学は、これまで以上に原初的ともいえるリアルさを獲得しつつあるように思える。世界がいま切実に求めているものこそ、彼が追究しつづけた「黙過」の主題ではないかとさえ私には思える。過去10年間、『宣告』と『永遠の都』のロシア語訳が出て話題となったが、そこに込められた生命賛歌と反戦の思いが、いつの日かロシアの人々の心に届くことを願う。