2026 5/13

悲しみの太宰 6-4

エッセイ

 太宰が、「道化の華」で徹底してあぶり出そうとした主題とは、人間が本来的にもつ残酷さである。しかし、それは、彼自身が認知している残酷さではない。彼自身は、「残酷さ」の全体的光景のひとコマとなるべく、自分の残酷さとどこまでも心中する気でいた。残酷さは、一個の光景として自立してはじめてその強度を明らかにする。では、「道化の華」において、この「残酷さ」の表現へと作者を突きうごかしていた動機とは何だったのだろうか。

  僕はなぜ小説を書くのだろう。困ったことを言いだしたものだ。仕方がない。思わせぶりみたいでいやではあるが、仮に一言こたえて置こう。「復讐」

「復讐」――。太宰はこのとき何を言おうとしていたのか。だれにたいする「復讐」を目的として小説を書こうとしていたのか。
 答えははっきりしている。
 それは、自分をかぎりなく信頼するものへの「復讐」であり、同時に、自分を裏切るものにたいする「復讐」である。「道化の華」にかぎって言えば、「のた打つ浪」のなかで、夫の名前を呼んだ園の「信頼」と「裏切り」にたいする復讐である。
「信頼」にたいする裏切りは、作者を神々しい位置に立たせる。逆に「裏切り」にたいする復讐は、マゾヒスティックな快感をかき立てる。
 では、具体的にどのようにして「復讐」を実現するのか。
 療養所「青松園」での穏やかな日常のなかで心身の傷も癒え、いよいよ退院を明日に控えた葉蔵は、友人二人を誘って海岸に出る。遠くに、葉蔵と園が大量のカルモチンを服用し、「のた打つ」海に飛び込んだ「ひらたい岩」が見える。最初の裏切りがここにある。

 「あそこから、はねたのだ」葉蔵は、おどけものらしく眼をくるくると丸くして言うのである。

「道化の華」における「復讐」の手段とは、端的に言って、人間の内部にひそやかに眠る真実を、俗悪な日常の光に晒すことである。真実は、次々と光に晒される。「のた打つ」海に飛びこむまえに、園がささやいたひと言の暴露も、また「復讐」である。

 「まだ耳についている。田舎の言葉で話がしたいな、と言うのだ。女の国は南のはずれだよ」

 だが、「復讐」はこれでも終わらない。
「青松園」での最後の夜にドラマが起こる。
 太宰は、読者にむかって、同じ病室のソファに監視役として起居する看護婦の真野にたいする「愛情」を告白しはじめる。だが、葉蔵の内面に蠢いている感情について、作者は、どこまでも抑制的であり、多くを語ろうとしない。いや、抑制的というより、意図的にはぐらかしている。そこでまさに、書きえないものを書きたいという衝動を写しだすような文章が次々と繰り出されてくる。

  「私は私なりに誇りを持とう。
 (中略)真野のほうへ寝がえりを打とうとして、長いからだをくねらせたら、はげしい声を耳もとへささやかれた。
  やめろ! ほたるの信頼をうらぎるな。」

 最後の「はげしい声」が何であったかは、ここでは、触れない。翌朝早く、真野に誘われて裏山にのぼった葉蔵の耳もとでは、当然のことながら、昨夜の「はげしい声」がこだましている。

 「誰ひとりいない山。どんなことでもできるのだ。真野にそんなわるい懸念を持たせたくなかったのである」

 作者は、夜が明けた葉蔵の心境に、荒涼たる気配が生じはじめたと書いているが、その真意とは何だろうか。こうして「道化の華」は、かぎりなくあいまいな幕切れを迎える。期待した富士は見えなかった。

 「葉蔵は、はるかに海を見おろした。すぐ足もとから三十丈もの断崖になっていて、江の島が真下に小さく見えた。ふかい朝霧の奥底に、海水がゆらゆらうごいていた。そして、否、それだけのことである。」

「そして」の接続詞のあとで、太宰は何を暗示しようとしていたのか、いや、何が起こったのかは、すべて読者の想像にまかされている。「荒涼たる気配」に支配された葉蔵の心中に何が起こったかは、知るよしもない。だが、「断崖」「江の島」「海水」の三つの言葉を、棺の釘のように打ちこんだ一文で暗示しようとしたものが何であったかは、もはや説明を要しないだろう。(つづく)

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