2026 5/27

悲しみの太宰 7-1

エッセイ

「あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ」(太宰治「駈込み訴え」)

 太宰治は、いうまでもなく天性のパロディストである。パロディストという言葉がふさわしくなければ、翻案家といった表現を用いてもよい。むろん、パロディストと、翻案家のどちらが定義として優れているのか、といった問題は後回しにしよう。翻案家だからといって貶める理由はどこにもないし、そもそも、パロディストであろうが、翻案家であろうが、いわゆる「フィクション」の定義において、太宰ほど自覚的であった作家も少ないからである。太宰にとってフィクションとは、人生というテクストをなぞり、そのテクストに、一定の解釈をほどこして別の物語を拵えることにあった。逆に、みずからが関わりをもたない人生や事実の外で物語を作る、ないし、プロットを拵こしらえる能力において、彼は必ずしも傑出した作家ではなかったといっていい。むろん、私小説が本流をなす昭和前半の文壇において、日常生活の外にプロットを紡ぎだす方法が、異質なものと見られたことはいうまでもないことである。私小説批判を受け入れる気など太宰にはさらさらなかったし、何らインパクトももちえなかったと思う。事実、大学の、そして作家として大先輩にあたる芥川龍之介や川端康成がめざした脱私小説的な世界にどれほど憧れようと、太宰本人からすれば、みずからの資質に照らして到底達しがたい境地であったことはまちがいない。
 そもそも、太宰にとって「フィクション」とは何だったのか。目の前の事実をどのように精緻に描写し、どのようにたくみに色づけしてみせたところで、現実そのものの重み、事実のリアリティにはけっして敵わないという確信めいたものがある。事実は小説(フィクション)よりも奇なり、というが、太宰にいわせれば、人生こそは、小説よりもはるかにフィクショナルであったということだろう。何よりも、だれにも近づきえない、人生という禁断の物語が、禁断のプロットが太宰にはあった。つねに予測をはみ出してしまう人生に彼はみずから魅入られ、驚異の目をみはり、恐怖に近い何かを覚えてきた。文学という営みにおいて彼が最高の価値としていたのは、そうして人生に満ちあふれる驚きであり、リアリティの意味もまさにその驚きに尽きた。かりにそのリアリティを超えて彼を惹きつける何かがあったとすれば、それは、すなわち、思想や宗教、あるいは、神話といった、より高次の、全体的な、ともいうべきリアリティの世界だったと見ていい。
 では、端的に、太宰が小説に見ていたリアリティとは何であったのか。この問いに答えを出すのは容易ではないが、これを単純に「面白さ」というひと言で答えてしまおう。その面白さは、少しくどいようだが、人生のテクストから外れるようなものであってはならなかった。「『晩年』に就いて」と題する小さなエッセーを読んでみよう。

  あのね、読んで面白くない小説はね、それは、下手な小説なのです。こわいことなんかない。面白くない小説は、きっぱり拒否したほうがいいのです。
  みんな、面白くないからねえ。面白がらせようと努めて、いっこう面白くもなんともない小説は、あれは、あなた、なんだか死にたくなりますね。(「『晩年』に就いて」)

 思うに、「晩年」をめぐるこの小文においで、一つの指針、すなわち「面白がらせる」という道化的な身振りが形づくられた。そして、この「面白がらせる」方法を約束してくれるのが、本歌取り、すなわち、彼自身もっとも得意とした翻案の手法だった。翻案とは、本質において「小技」であって、何かしら壮大なフィクションを構築するといったことは意味しようがない。近代小説の根源に、すべからく作家の告白性がひそんでいるとしたのは伊藤整だが、「面白がらせる」という目的のために、その「告白性」の質を根本から変えようとしたのが、だれあろう、太宰だったのだ。太宰は、作家自身と「語り手」である「私」が一致するという究極の事態もいとわない覚悟で新たな私小説の創造に挑んでいたのだと思う。(つづく)

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