2026 6/17

悲しみの太宰 8-1

エッセイ

「女は、恋をすれば、それっきりです。ただ、見ているより他はありません」(太宰治「女の決闘」)

一回十五枚ずつで、六回だけ、私がやってみることにします。こんなのは、どうだろうかと思っている。たとえば、ここに、鷗外の全集があります。勿論、よそから借りて来たものである。(太宰 治「女の決闘」以下同)

奇妙な書き出しである。ですます調がいきなりである調に変わっている。凝った書き出しというべきか、破れかぶれの書き出しというべきか。
私はいつもこんなふうに想像している。
前夜の酔いからまだ十分には立ち直れないままで書き机に向かった太宰、恨めしい思いでしばし呆然と目の前の原稿用紙を見つめている。これから何時間かかけて、すべての升目に文字を埋めなくてはならない。何やら強迫観念めいたものが絶えず心のどこかで蠢いている。ともかくネタがなければ、小説は船出できない。できることなら、他人の力を借りたい。プロットさえ決まれば、こちらのもの。自分の筆になるものなら、どんなに短い一筆書きだって有難がってくれる読者がいる。自分には神がかった何かがある。読者は、「太宰」という生命の秘蹟に与れるだけで幸せなのだ。しかし、そうはいっても甘えてばかりはいられない。何はともあれ、物語の第一行さえ書き下ろせれば、強迫観念は雲散する・・・・・・。
太宰の真骨頂ともいうべき、他者の心や他者の物語にシンクロする力は、たちどころに文字を生きた魂に変えた。しかし、その魂は、つねに彼の原記憶と一つにつながっていたため、おのずから疼きを伴った。しかも、太宰の嗅覚が求めていた記憶はいつも同じ匂いを発していた。視覚とは基準が異なり、嗅覚は美醜のカテゴリーから大きくずれている。普遍的によい匂い、いやな匂いというのはあるだろうが、太宰の動物的な嗅覚が求めている匂いは、他の凡人のそれとはちがう。動物が匂いを求めて叢の奥にさまよい込んでいくように、太宰もまた、常人の目にはトリヴィアリズム(瑣末主義)としか映らない世界にどんどん深入りしていく。やがて、昨夜、酒を酌み交わすうちにちらと頭を掠【かす】めたアイデアが蘇ってくる。最初の一行が書き出せないなら、最初の一行についての話題から書きはじめてしまえ・・・・・・。
太宰の数ある翻案小説のなかでも、「女の決闘」は、構成、手法、内容ともに、作者の自意識の面妖な動きをそのまま活字化したような異色の作品である。原作は、ドイツの作家ヘルベルト・オイレンベルグが書いた「ほんの十頁ばかり」の短編。タイトルは同じ。太宰は、『鷗外全集』第十六巻に収められた他の一群のドイツ人作家たちの小説の書き出しに太宰は注目し、それらの事例を紹介するところから話を始めた。

どうです。うまいものでしょう。あとが読みたくなるでしょう。物語を創るなら、せめて、これくらいの書き出しから説き起してみたいものですね。

だが、この「女の決闘」だけは、プロットをひねり出すのに苦労したとか、書き出しに難渋したといったことはなかった。太宰は、むしろはやる気持ちを抑えようと、のっけからあえて脇道にそれた、という印象すら受ける。にもかかわらず、自分に書きうることは、ごくわずかで、とても、原稿用紙一五枚で六回の連載で埋めつくせる自信はなかった・・・・・・。
そこでさっそく、(太宰に代わって)オイレンベルグの原作をパラフレーズしてみよう。
舞台は、一九世紀ロシアの首都サンクトペテルブルク。作家である夫の浮気に気づいた「女房」ことコンスタンチェが、医学を学ぶ浮気相手の若い女学生に決闘を申しこむ。決闘を翌日に控え、女房は、銃砲店に赴き、店の主人からごく初歩的な銃の操作法を習う。翌朝、二人は決闘場に赴くが、射撃には腕に覚えのある若い医学生は、思いもかけず、素人のコンスタンチェの銃に撃たれて死ぬ。他方、コンスタンチェは、医学生を野原に放置したまま、役場に自首して出る。やがて予審がはじまるが、未決檻に入れられたコンスタンチェは、夫の面会をあくまで拒否し、食事をいっさい口にすることなく、餓死する。(つづく)

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