悲しみの太宰 9-1
「鷗は、あれは、啞の鳥です」(太宰 治「火の鳥」)
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偶然だろうか、仕掛けだろうか?
私生活上のディテールをあざとく切り売りするかに見せて、逆にどこまでもその真実をカムフラージュしようとした作家、それが太宰である。どれほど赤裸々に照らし出されようと、読者は、むしろ明かされなかった「事実」の裏側にはるかな深みを感じとっていた。そして太宰自身、みずからの「事実」にいくつものバリエーションを与え、読者を迷宮に誘いこむ手立てに喜びを見出していた。その意味で、小説のモチーフとして扱われた「心中」事件のどこにも額面通りの真実はない、と見るのが正解である。
私がいま、改めて着目している作品が、一九三八年の秋から翌年のはじめにかけて書かれた小説「火の鳥」である。原稿用紙にして一〇〇枚ほどの中編だが、この未完の物語を読み進めていくと、なぜ、という問いが、沸々と湧き起こってくる。すでに、「道化の華」(一九三五年)や「姥捨」(一九三八年)で扱った心中事件を、いまなぜ、事新しく話の枕に用いる必要があったのか。そうすることに、どれほどの必然性があったのだろうか。
問いは、それだけにとどまらない。
物語で、なぜチェーホフが言及されるのか。わけてもなぜ「三人姉妹」なのか?こうしてなぜは、果てしもなく積みあがっていく。「火の鳥」は、なぜ、未完のまま閉じられたのか。そもそも、「火の鳥」というタイトルがつけられた理由とは何なのか?「火の鳥」そのものの神話的起源はどこにあるのか?
問いはさらに、より深く倫理的な次元にまで波紋を描いていく。作家自らが経験した心中事件を、これほどにも軽々しく扱うことが常識的に許されるのか。許される、と、太宰は真剣に考えていたのか。
「火の鳥」が書かれた一九三八年は、太宰にとって分水嶺的な意味を帯びる一年である。周知のとおり、それまでに彼は、すでに二度の心中事件を起こしており、二度目、すなわち、小山初代との心中未遂は、前年三月に起きたばかりだった。そこには、確実に、修羅場としか呼びようのない泥沼があった。その後、約一年近い空白を経て、心身ともに傷だらけの太宰の前に小さな光が灯ろうとしていた。「分水嶺」という言い方には、むろん、再起をかけた石原美知子との縁談が含意されている。事実、美知子とのおよそ一〇年に及ぶ結婚生活で、太宰は、この時期、少なくとも表面的には驚くほど安定した生活を送り、多くの傑作を紡ぎ出していった。
この「分水嶺」にあたる季節に、太宰の内面の傷が、確実に癒えつつあることを物語る小品がある。美知子との結婚生活の最初の実りともいうべき短編「富嶽百景」である。
昭和十三年の初秋、思ひをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。(太宰治「富嶽百景」以下同)
太宰が向かった先は、甲州・御坂峠にある「天下茶屋」――。当時、その茶屋には、小説執筆のため、すでに半年近く井伏樽二が逗留していた。(つづく)