2026 8/5

悲しみの太宰 10-1

「乳房って、おふくろにだけあるものだと思っていた」(太宰治「火の鳥」)

 改めて確認しておこう。
 未完の小説『火の鳥』は、須々木乙彦と高野さちよの心中未遂事件によって幕を開け、乙彦の従兄である若い医学研究生・高須隆哉と、さちよの「再会の予感」をもって閉じられる。物語の終盤、高須がさちよの同棲相手である劇作家・三木朝太郎の邸へ車で押しかける場面は、この小説がいままさに新たな段階へ突入しようとしていることを暗示してやまない。高須とともに車に乗り込むさちよの友人、八重田数枝の内心を、作者は次のように描写している。

  「不吉な予感に、気が遠くなりそうだった」

 数枝が震撼した「不吉な予感」の正体とは何か。この後、物語がどのように展開するかについて、読者はただ想像に身を委ねるほかない。大団円がすぐそこに迫っているようにも感じられるし、ここからさらに二転三転ありそうな気配もする。いずれにせよ読者は、この小説が、いささか厄介な登場人物を抱え込んでしまったことに気づき、しばし戸惑いをぬぐえないにちがいない。むろん、関心の的は、若い医学研究生・高須の存在である。高須とは、そもそも何者なのか。

 思うに、太宰治には一種の「ロミオとジュリエット」コンプレックスとも言うべき宿痾があった。つまり、心中物語の原型として、シェイクスピアの戯曲をどこかで強く意識していたということだ。しかし、恋し合う主人公たちの世界から第三者が完全に消えてなくなるといった事態が、現実の世界では滅多に起こり得ないことを太宰もまた熟知していた。世界は不信に満ちているが、その不信の多くは、主にジュリエットの周辺に根を張っている。そもそもアダムとイヴの楽園追放以降、男女の恒久的な愛という観念そのものが永遠に失われてしまってはいなかったろうか。しかしここで注意しておきたいのは、不信の原因を作り出してきた張本人が他ならぬ自分自身である事実を、当の太宰がしばしば失念していた点である。
 楽園追放――。濃淡の差こそあれ、人間なら誰しもそうした楽園喪失の記憶を一つや二つは抱えている。ただし、その喪失が「追放」としての積極的な意味を帯びるには、記憶そのものが、たとえ一瞬であれ至福の感覚に満たされていなければならない。むろん、ここでいう楽園は現実の恋愛体験である必要はなく、純粋な想像力の世界の出来事であっても一向に構わない。重要なのは、不信や背信といったネガティブな要素がすべて取りのぞかれ、ひたすら信頼と愛のみが君臨する状況の存在である。他方、不信や背信といった泥臭い要素を欠落させている分、二人の愛は闘争的な性格を失い、熾烈なエクスタシーを期待することは困難になる。彼らに残されるのは、あえて言うなら、後に『斜陽』の主人公が口にする「快楽のインポテンツ」とでも呼ぶべき、虚無的な世界である。
 逆説的に響くかもしれないが、『火の鳥』に描かれた乙彦とさちよの心中事件は、どこかこの楽園追放の記憶に通じているようにおもえてならない。出会いから睡眠薬の服用に至るまで、流れる時間は、わずかに一昼夜。そこには、不信や背信の「蛇」などが入り込む隙間は一厘たりともなかった。二人の道行の記憶に至福の感覚を添えることができたのは、むろん、生き残ったさちよの側である。この「事実」は、太宰文学における「心中」の欺瞞と救済をそれとなく教えてくれるようである。端的に言えば、男の全的な要求に応じようとする「女の献身」である。逆に、その「献身」に身を委ねる男の側から見れば、心中とはまさに「母胎回帰」の究極的な行いに他ならなくなる。帝国ホテルで最後の夜を迎えた乙彦の姿を、さちよは次のように証言している。

  「あのひと、ね、おかしいのよ。とても、子供みたいな、へんな顔をして、僕は、乳房って、おふくろにだけあるものだと思っていた、というのよ。それが、ちっとも、気取りでも、なんでもないの。」(太宰治「火の鳥」)

 さちよを心中という名の献身へ駆り立てた決定的な動機が、ここにある。さちよはこの一言によって「永遠の母親」としての自信を得たと語るが、この瞬間に彼女が捉えられていた崇高な感覚とは、幼子イエスを胸に抱く聖母の愛そのものであった。そう考える時、乙彦との邂逅から得られた歓喜を、決してさちよの受動的な思い込みということはできなくなる。彼女はその邂逅を通して、初めて自らの「自由意志」、すなわち能動的な生命を経験したのだから。では、冥界から帰還し、「もう、そのよろこびのままで、死にたかった」と口走るさちよに残された「女優」の道は、一つの象徴として何を意味するだろうか。
 ここで改めて確認しておこう。
 タイトルが暗示する通り、『火の鳥』とは、情死の淵から生還した一人の女性の「復活」の物語でなければならない。では、何をもって「復活」とするのか。男たちの欲望のなすがままに、彼らの「目的」として生きる限り、さちよは単なる肉的存在でしかなく、「火の鳥」どころか「生ける屍(しかばね)」を晒し続けることになる。考えようによっては、乙彦との心中こそがさちよの、女性性いや人間性としての最高の「復活」であり、最終的なゴールであったという皮肉な見方さえ成り立つだろう。(つづく)

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