2025年11月

2025 11/21

悲しみの太宰 1-3

エッセイ

 3

 「恥の多い生涯を送って来ました。」――。
 ご存じのように、「人間失格」は、葉蔵という青年による三つの手記からなっている。幼いときから、周囲の人間との何かしら絶望的な違いを意識しつづける主人公(葉蔵)は、他人とまともにコミュニケーションをとることができないまま、ついに人間に対する最後の求愛として「道化」ることに生きがいを見出す。だが、やがてその「道化」の技術を見抜かれそうになるや、酒、売春、マルクス主義に救いを見出し、つかのまの安逸を経験し、その挙げ句、ある人妻との情事の果てに心中事件を起こすことになる。結局、ひとり生き残り、自殺幇助の罪を問われて高校を放校となるが、その後も、女性との自堕落な関係が続き、ついには不信の地獄から逃れようと「信頼の天才」ヨシ子にそのよすがを求め、同棲をはじめる。しかしその彼女も、信じやすい性格が仇となって、出入りの商人の餌食に甘んじる……。
 雑駁ながら、「人間失格」の粗筋をスケッチしてみたが、多くの読者にとって「人間失格」のもっとも衝撃的な部分はやはりそのラストだろう。同棲相手ヨシ子の不倫現場を目撃した葉蔵が襲われた「恐怖」の正体とはどんなものだったのか。そもそも、ヨシ子は、なぜ、「三〇歳前後の無学な小男の商人」の餌食とならなければならなかったのか(ほんとうに「餌食」だったのか)。荒れくるい混乱する葉蔵は、結局のところ、自分がある肝心な部分を見逃していたことに気づく。「信頼の天才」であるヨシ子は、他人を信じやすいという「稀な美質」において、自分よりもはるかに世界にむかって開かれた存在だったということだ。神がかりにして、聖なる愚者――。葉蔵は、たんに、みずからの信頼の反映として、ごくありきたりな目線でヨシ子を見つめていたにすぎなかった。つまり彼は、「信頼の天才」などという勝手な物差しとは無縁に、みずからのまっさらな目で現実を見つめるヨシ子の内面をまったく顧慮してはいなかったのだ。この、自堕落な没落貴族が脳裏に描いていた「信頼」とは、「斜陽」の直治と同じ聖なる、それこそが「信頼の天才」である母の幻想だった。

 何の打算も無い好意、押し売りでは無い好意、二度と来ないかも知れぬひとへの好意、自分には、その白痴か狂人の淫売婦たちに、マリヤの円光を現実に見た夜もあったのです。

 葉蔵は、この聖なる徴を残した「白痴か狂人の淫売婦たち」の前で、聖なる子として、絶対的な信頼という楽園を取りもどすことができたが、だが、そうした驕りを嘲笑うかのように、邪悪な神は葉蔵を試練にかけた。現実のヴェールにかぎ裂きを入れるのは、葉蔵ではない。むしろそれは、没落貴族としての驕りたかぶった彼に対して神が下した「罰」なのである。
 私がとくに興味をそそられたのは、そうしてヨシ子の心のうちに立ち入ろうとしない葉蔵が周囲の人々に対して抱く猜疑心である。「らしさ」や「つもり」への信仰を失った人間がたどる悲劇とはそのようなものだが、じつは、その猜疑心から、逆に葉蔵がヨシ子に対して密かに抱く共犯的な感覚が浮かびあがってくる。テクストを通して葉蔵の内面に深く目を凝らしてみよう。「二匹の動物」が睦みあうさまを目撃した彼は、その瞬間、一個の目と化し、身体の奥底からこみあげてくる「恐怖」に釘付けとなった。しかしその恐怖は、進行するプロセスを食いとめようとする意志に転化することはなかった。なぜか。彼をそこに踏みとどまらせ、なおかつ現場から静かに立ち去らせるのは、葉蔵自身の隠された欲望である。いってみれば、恐怖の欲望――。「怒りでも無く、嫌悪でも無く、また、悲しみでも無く、もの凄まじい恐怖」と葉蔵は書いている。さらには、「神社の杉木立で白衣の御神体に逢った時に感ずるかも知れないような、四の五の言わさぬ古代の荒々しい恐怖感」と。そう、葉蔵に襲いかかった恐怖とは、人間の存在を根元からなぎ倒すほどに、根源的な何かをふくんだ、運命的でむきだしの力だった。「二匹の動物」が繰りひろげた現実は、その醜悪さにおいて、あるいは、人為的というよりもむしろ運命的であるという意味において、神々しいものとして経験された。葉蔵の前に、神が、「白衣の御神体」が立ち現われたのは、まさにその瞬間である。葉蔵の絶望は、「二匹の動物」があらわにした現実の無意味な高さが、人間世界の営みをはるかに超えていたという実感に根ざしている。そしてそこにおのずから生まれた疎外感――。しかし、葉蔵は、むしろこの瞬間を、自堕落な自分に対する罰として待ち受けていたといっても過言ではなく、その点にも、神の罰にいずれ晒されるべき傲慢がひそんでいた。葉藏は書いている。

 「ヨシ子が汚されたという事よりも、ヨシ子の信頼が汚されたという事が、自分にとってそののち永く、生きておられないほどの苦悩の種になりました」(「第三の手記」)

 「ヨシ子の信頼が汚された」という認識は、ある意味での達観であり、文明論的な理解であり、もっといえば、一種の美的な解釈でもある。その恐怖は、まさに古代的であるがゆえに森羅万象に通じ、なおかつ、ギリシャ悲劇的な「認知」の快楽を伴っている。では、「二匹の動物」の当事者であるヨシ子にとって、葉蔵のそうした形而上的な「理解」が果たしてどれほどの意味をもっていたのか、ということだ。葉蔵=太宰からすれば、両者の間のこの深淵は、何としても乗り越えられなくてはならなかった。(つづく)

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