2025年12月
悲しみの太宰 3-1
「女の嘘は凄いものです」(「嘘」)
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太宰治を写した何枚もの写真のなかで、私が心を魅かれている一枚が、銀座のバー「ルパン」で撮ったスナップショットである。撮影者は、林忠彦。チョッキ姿にネクタイという粋な太宰を床すれすれから捉えた仰角のアングルがみごとにの一言に尽きる。「便器の上に寝そべるようにして兵隊靴であぐらをかいた」(『カストリ時代』朝日文庫)と林は書いた。この写真から一年半後、太宰はこの世を去ることになるが、その表情は驚くほどに屈託なく、写真の細部にどう目を凝らしたところで、迫りくる不吉な影など微塵も見きわめられない。
この写真のせいもあってか、太宰の酒というと、銀座の裏町にある文壇バーなどを想像することが少なくなかった。だが、じっさいに小説には、少なからず中央線沿いの飲み屋も出てくる。銀座から三鷹まではかなりの距離なので、帰宅の時間を気にせずくつろげる場所といえば、荻窪、阿佐ケ谷あたりが適当だったのではないか。じっさいに彼は、一夜のうちに、三鷹、高円寺をはしごしてまわったこともあったようだ。
最近、拾い読みした小説「未帰還の友に」(新潮文庫『津軽通信』所収)に、高円寺の名前が出てきたので、好奇心にかられ、高円寺駅の北口に出てみた。一月も終わりのことだ。
菊屋というのは、高円寺の、以前僕がよく君たちと一緒に飲みに行っていたおでんやの名前だった。(「未帰還の友に」)
結局、六〇年前の飲み屋を探すのは、むろん雲をつかむような話で、私はただあてもなく駅周辺をぶらつくにとどまった。恐ろしく底冷えのする夕暮れ時だった。
太宰は、遠来の客人のもてなしを兼ねて外に飲みに出ることがあったようだが、おそらくはこの高円寺あたりが東の限界だったろう。現在の高円寺駅の高架下には、太宰が好みそうな小奇麗な店がいくつかあるが、そもそも高円寺駅の高架化は、一九六四年の東京オリンピック以降のことなので、ガード下の酒場で飲んでいる太宰の姿を想像することは難しかった。
さて、「斜陽」の爆発的な売れ行きによって一躍流行作家となった太宰だが、その混乱した私生活のなかで探りあてようとしていたテーマに大きな変化が生まれることはなかった。相も変わらず、人間の信と不信のせめぎあいの現場に犀利な眼を走らせ、自分が恐れるものを題材にして物語を織りつづけていた。恐れるもの、それこそは、信にたいする不信の脅威、真実にたいする嘘、絶対性の対極にある「偶然」である。作家として彼は、「嘘」を書きつづける運命にあったが、その「嘘」をだれよりもはげしく忌み嫌っていたのが、太宰自身だったといえる。しかしその彼も、最終的には、「嘘」による復讐に全身を曝さざるをえなくなった。そればかりか、太宰自身の信仰の一形式にまで高められた信と不信をめぐる問題は、徐々に内的なインパクトを失いはじめていた。遺書には、「小説が書けなくなった」とあるが、最晩年の太宰本人の立場からすれば、おそらくそのとおりだったのではないか。真に創造の名に値する行為をかりに前進としてイメージし、その行為に殉じたいと願いながら執筆活動を続けていたにしても、戯作のスタイルをどこまでも貫くことには限界があった。しかも、「斜陽」、「人間失格」の二作で、彼が、少なくとも告白小説の極点に上りつめていたことは、すでに一見して明らかだった。前進の余地がどれほどあるのか、その可能性をめぐってだれよりも悲観的な気分でいたのが、太宰自身だったと思う。その太宰に残されていたのは、小説を書くことよりも、人生をどう生きるかという問題だった。人生と小説の境界がかぎりなく狭まりはじめるなかで、小説にあっては可能なプロットの変更を、人生というページで実現してみようという気になったのも不思議はない。足踏みに足踏みを重ね、ひたすら、絶対性の回復という、途方もないテーマと信仰に向かってあがき苦しみながら、彼の関心は、書くことよりも、テーマと信仰の重さのほうに大きく傾きはじめていたような気がする。(つづく)