2026年07月

2026 7/1

悲しみの太宰 8-3

エッセイ

 「女の決闘」は、少なくとも表面上、二つのテーマを扱っている。第一に、作家とは何か、作家精神とは何か、という問いである(「身中の虫」)。そして第二は、女性の心理を描くことはどこまで可能か、という問いである(「女は玩具、アスパラガス、花園、そんな安易なものでは無かった」)。第一のテーマから導きだされた答えは、最終的に、「芸術家の本性は、サタンである」のひと言に尽きている。「女房」と愛人の医学生の決闘を、背後からそっと覗きこむ見者の宿命――
 他方、DAZAIが、女性の本質の発見という点で語りえたのは、次の一行である。

  男の作家の創造した女性は、所詮、その作家の不思議な女装の姿である。女では無いのだ。

 では、『鷗外全集』第二六巻に収められた数ある短編小説のなかで、太宰がとくにこの小説に興味をそそられた理由は、これら二つのテーマに尽きていたのだろうか。いや、けっしてそのようには思われない。太宰は、むしろオイレンベルグの原作のもつ「描写」の力に圧倒されていたにちがいない。太宰は書いている。

  その描写の的確、心理の微妙、神への強烈な凝視、すべて、まさしく一流中の一流である。

 太宰は、同じくだりで、「構成の投げやりな点」に不満をもったと書いているが、それは、ほとんど罪のない言いがかりに近いものだった。なぜなら、「投げやりな点」では、むしろ太宰のほうが、一枚も二枚も役者が上手だったからだ。つまり、その言いがかりは、褒め殺しを恐れる微妙なバランス感覚に培われた何かであり、同時に、ある種の「二枚舌」だった可能性もある。
 では、原作「女の決闘」のどの「描写」に太宰は惹きつけられていたのか。
 物語の終わり近く、未決檻での「女房」の死を描写する次のくだりに注目してほしい。

  その時女房の体が、着物だけの目方しかないのに驚いた。女房は小鳥が羽の生えた儘で死ぬように、その着物を着た儘で死んだのである。(中略)丁度相手の女学生が、頸の創から血を出して萎びて死んだように女房も絶食して、次第に体を萎びさせて死んだのである。(オイレンベルグ「女の決闘」森鷗外訳)

 オイレンベルグは、「女房」の死を「相手の女学生」への後追い自殺、いや、無理心中と見ていた。思うに、原作「女の決闘」をめぐるDAZAIのもろもろの注釈は、なくもがなの言いわけにすぎなかった。太宰の本音を代弁すれば、オイレンベルグの短編を、各回一五枚ずつ六回にわけて転記できればそれでよかったのだ。では、なぜ、太宰は、「女房」と女学生の「無理心中」にそれほどにも惹きつけられたのだろうか。それはたぶん、太宰の心に微妙な波紋を描いたある新鮮な発見(驚き、いや、ことによると嫉妬)にあったのではないか。

  女というものは、こんなにも、せっぱつまった祈念を以て生きているものなのか。(太宰治「女の決闘」以下同)

 オイレンベルグの目は、心中小説としての「女の決闘」の本質を確実にとらえていた。他方、太宰は、二人の愛する女たちの死から疎外された、だめな芸術家に自分を投影していた。二人の愛する女たちを死に追いやったのは、ほかでもないオイレンベルグ=太宰の「身中の虫」だったのである。こうして、「女の決闘」において、オイレンベルグと太宰は共犯関係を結ぶにいたる。人知れず持続するものへの慈しみ、日常生活のなかに這いつくばって生きる女たちのけなげさ、その愛の異常さ――。太宰は、一人の女のせっぱつまった祈念が外化し、一個の絵として自立する瞬間に深く心を揺さぶられていたにちがいない。物語の終わりで、知人の牧師が、「顔を赤くして」笑いながら口にしたひと言にこそ意味がある。

  女は、恋をすれば、それっきりです。ただ、見ているより他はありません。

 オイレンベルグの「女房」は、ヴィヨンの「妻」でもあった。(つづく)

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