2026年07月

2026 7/15

悲しみの太宰 9-2

 御坂峠からの富士の眺めは、「富士三景の一つ」に数えられる絶景である。だが、「富嶽百景」では、そのあまりに「おあつらひむき」の美景に強い違和感を覚える太宰の姿も刻まれている。

  私は、あまり好かなかつた。好かないばかりか、軽蔑さへした。あまりに、おあつらひむきの富士である。(中略)私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた。

 ところが、はじめは強い忌避へと傾いた太宰の心に、やがて微妙な変化が訪れてくる。

  富士には、かなはないと思つた。念々と動く自分の愛憎が恥づかしく、富士は、やつぱり偉い、と思つた。よくやつてる、と思つた。

 では、当時の太宰にとって、富士とはいかなる存在であったのか。
 端的に答えてしまえば、富士とは、太宰の将来にのしかかる〈幸福と日常性のシンボル〉である。とりわけ「おあつらひむきの富士」についていえば、否が応でもそれに屈することを強いるキッチュな存在、圧倒的な力をもって見るものの無意識を支配しようとするグロテスクな日常性の象徴など、さまざまな表現が可能だろう。しかし、さらに踏み込んだ言い方をすれば、「おあつらひむきの富士」とはまさに「古代の荒々しい恐怖」そのものではなかったろうか。小山初代と別れ、石原美知子との縁談話が進められるなかで、太宰は、日常性ならぬ日常生活という「恐怖」と折りあいをつけて生きていく未来を予感していた。そしてその予感こそが、「火の鳥」を書きすすめる太宰の心にとりついた憂鬱の正体だったといっても恐らく過言ではない。そしてその憂鬱を吹っ切ろうと願うかのように、彼は、「満願」「女人創造」など、いわば日常性礼賛ともいうべき短編に意識して手を染めていったのである。
 当時の太宰の足どりを確認してみる。
 東京を出て、天下茶屋入りしたのが、九月。同じ月、甲府に下りて美知子との見合いに臨んだ彼は、十一月に無事婚約式を済ませ、甲府の町はずれにある素人下宿に身を寄せた。翌年一月、杉並区清水町にある井伏家で美知子と結婚式を執り行い、甲府の新居で結婚生活に入るとまもなく、「富嶽百景」の仕上げに取りかかった(美知子は、後半部分の筆記をつとめた)。
 「富嶽百景」で人口に膾炙しているのが、「富士には、月見草がよく似合ふ」の一行である。大きなものと小さきものが織りなす鮮烈なコントラスト。太宰の心はむろん、「月見草」の側に寄りそっている。しかし長部日出雄に言わせると、このコントラストもまた「おあつらひむき」の構図ということになる。

  読者にとって、富士山と月見草を並び立たせた構図が、まるで自分の網膜に映った永遠の真実のように感じられるのは、おそらくそれが現実のものではなかったからに違いない。(長部日出雄「桜桃とキリスト――もう一つの太宰治伝」文春文庫)

 では、富士と月見草のコントラストを、グロテスクな日常性と小さき存在としての太宰という構図にストレートに置き換えることは、そもそも可能なのだろうか。思うに、当時の太宰は、そのどちらかに心情的に加担できるような状況にはなかった。畏怖すべき日常性のシンボルである富士とは別の意味で、月見草もまた、「よくやつてる」日常性の健気なシンボルだったからだ。むしろ、注意を促したいのは、「朝に、夕に、富士を見ながら、陰鬱な日を送つてゐた」「月見草」=太宰の引き裂かれた内面である。(つづく)

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