2026年08月
悲しみの太宰 10-2
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改めて問いを繰り返そう。
女優への道を歩み始めたさちよの前に、亡霊のように立ちはだかる高須とは何者か。乙彦、さちよ、高須の三者が織りなす関係は、どこか神話的な謎に満ち、否応なく読者の好奇心を掻き立てる。
これは筆者の想像にすぎないが、太宰の胸奥には、自らの死後に残された世界を覗き見たいという、マゾヒスト特有の願望が息づいていたのではないか。死者となった以上、物理的にそれを望むこと自体不条理というしかないが、太宰は、自分が消失した後の世界の光景を執拗に思い描こうとしていた(太宰がトルストイの『イワン・イリイチの死』を読んでいたかどうかは、確かめられていない)。カンバスに穿たれた一点の穴。そこから見える光景は、自らの肉体存在がかつて占めていた場所である。では、その穴の向こう側に広がる世界は、これからどのような力学に従って動いていくのか。死の淵から何度も生還した経験を持つ太宰として、この問題に無関心ではいられなかったはずである。
視点を太宰自身から須々木乙彦の立場に移してみよう。すでに冥界へと住まいを移した乙彦が、女優として自立しようとするさちよを再び冥界の側へ連れ戻したいと願っていたか否かは、太宰一人をのぞいて誰ひとり知ることはできない。ただし、『新ハムレット』(たとえば、ガーツルードをしきりと川底の臥所に誘う父王ハムレットのように)をひもとくまでもなく、太宰の登場人物たちの胸にそうした暗い願望が渦を巻いていたことは否定できない。冥界の乙彦がかりにそれを望んだとすれば、さちよが女優として名声を得ることなど言語道断である。しかし、死者となった乙彦にはもはや直接彼女に呼びかける術はない。頼りにできるのは、さちよの無意識に刻まれた至福の記憶だけである。そこで太宰は、その記憶を呼び覚ますための「使者」を召喚する。その死者こそが高須というわけである。「須々木」と「高須」の姓にじっと目を凝らしてみよう。二つの姓に共通する「須」の文字こそ、彼らの同一性を物語るサインに他ならない。
ところが、その高須が、あろうことか、冥界の使者としての役割から早々に離脱してしまう。他方、さちよの心には今なお楽園(=黄泉の国)への回帰願望が息づいており、高須との関係がどう発展するかは彼女の意志一つにかかっている。さちよが高須に宛てた手紙の一部を引用しよう。
「あたしは、舞台で、あたしの身のほど、はっきり、知りました。まあ、あたしは、一体なんでしょう。自分がまるで、こんにゃくの化け物のように、汚くて、手がつけられなくて、泣きべそかきました。(中略)あたしは、ちっとも、鉄面皮じゃない。生ける屍、(後略)」
さちよは高須に向かって、自分のそうした「屍」を「見ないふりしていて下さい」と懇願する。楽園の記憶を振り払い、ただ現世の「甘い水」だけを求めて生きる浅薄な女と思われることに、彼女ははげしい恐怖を覚える。生き残ったさちよにとって、乙彦の記憶は「原罪」と化し、高須はその原罪の化身として存在しはじめる。最終章に目を向けよう。
「その夜、ああ、知っているものが見たら、ぎょっとするだろう。須々木乙彦は、生きている。生きて、ウイスキイを呑んでいる。」
須々木と高須の分身性、あるいは冥界の使者としての高須の役割を暗示する印象深い一節である。さちよの後見人ともいうべき数枝が抱いた「いやな気」は、この「分身性」に対する違和感に発している。
「それが全く別人だ、ということを知っていながら、やはり、なんだか、いやな気がした。似ているのである。」
太宰はおそらく、須々木と高須の像を極限まで接近させることで、ある超越的な救済者の役割を高須に担わせようとしていた。その期待はたんに死んだ乙彦の願望にとどまらず、さちよの肉体の虜となりながら(「あの人の肉体を、完全に、欲しい」)、高須にだけは一目を置くジャーナリスト・善光寺助七の願望でもある。
「あいつを、美しくして下さい。おれの、とても手のとどかないような素晴らしい女にして下さい。」
少し飛躍するが、高須に対する善光寺のこの態度は、どことなくドストエフスキーの『白痴』の一場面を髣髴させる。高須はまさにキリストの像に二重写しにさせられたムイシュキン公爵の役割を、さちよはムイシュキンとロゴージンの間で激しく揺れうごくナスターシャの役割を担わされた。では、高須は果たして「公爵キリスト」の役割を全うできる器量を持ち合わせていたといえるのだろうか。最終的には、善光寺同様、さちよの肉体の奴隷となる運命を辿るのではないか。
「僕は、さちよを愛している。愛して、愛して、愛している。誰よりも高く愛している。忘れたことが、なかった。」
高須のこの激烈な叫びには、どこまでも受動的であり、かつ人間存在そのものへの慈しみに溢れた「公爵キリスト」の影を見出すことはできない。ここに発露するのは、文字通り、闘争的な性格を帯びたエロスの発露である。ドストエフスキーとの比較でいえば、このドラマはむしろ『カラマーゾフの兄弟』における父フョードル、長男ドミートリー、そしてその恋人グルーシェニカの三角形になぞるのがふさわしいだろう。(つづく)