2026年08月
悲しみの太宰 10-3
3
さちよを支配せんとする劇作家の三木や、善光寺に対するさちよ自身の本音はどのようなものか。そして今後彼女は、若い高須とどう対峙していくのか。
奥州の温泉宿で三木と鉢合わせしたさちよは、「新橋駅のプラットフォーム」で見かけた「スマートな犬」の記憶を語る。ここには、さちよの男性観に重ね合わせて、太宰自身の女性観が鮮やかに投影されている。
「かちかちかちかち、歩くたんびに爪の足音が聞えて、ああ犬は爪を隠せないのだ、と思ったら、犬の正直が、いじらしくて、男って、あんなものだ、と思ったら、なおのこと悲しくて、泣いちゃった。酔ったわよ。あたし、ばかね。どうして、こんなに、男を贔屓するんだろ。男を、弱いと思うの。あたし、できることなら、からだを百にして千にしてたくさんの男のひとを、かばってやりたいとさえ思うわ。」
さらに、数枝のアパートに身を寄せたさちよは、次のように熱弁を振るう。
「あたし、お役に立ちたいの。なんでもいい、人の役に立って、死にたい。男のひとに、立派なよそおいをさせて、行く路々に薔薇の花を、いいえ、すみれくらいの小さい貧しい花でもがまんするわ、一ぱいに敷いてやって、その上を堂々と歩かせてみたい。」
「女が肉体だけのものだなんて、だれが一体、そんなばかなことを男に教えたのかしら。(中略)女は肉体のことなんか、そんなに重要に思っていないわ。」
そして、意外にも次のように付け加えるのだ。
「女にほんとうに好かれたいなら、ほんとうに女を愛しているなら、ほんの身のまわりのことでもいいから、何か用事を言いつけて下さい。」
さちよの思想によれば、男は「男そのものが、立派に尊い」のであり、それゆえに自信を持て、ということになる。これは先述の「お役に立ちたい」という利他の思いに通じており、太宰の筆に一切のブレがないことを物語っている。しかし、「女は肉体のことなんか、そんなに重要に思っていない」という発見こそは、おそらく太宰自身がもっとも深く傷つき、打ちのめされた真実ではなかったろうか。『火の鳥』を執筆していた時点の太宰にとって、これは究極ともいえる真理であった。なぜなら太宰は、死んだ須々木乙彦よりも、劇作家の三木やジャーナリストの善光寺に近い泥俗さをもって女たちに接していたからである。つまり、さちよという聖なる存在について、精神の次元においては一歩たりとも近づくことが許されない存在として認識していたからである。
さちよにとって肉体の悦びはあくまで「前提」であり、前提である以上、それは決して「ゴール」にはなり得ない。では、さちよ(=女)にとっての目的、すなわち最終ゴールとは何か。それこそが「献身」である。献身とは、本質において、自己の匿名性(個を消し去ること)においてなされる行為である。さちよは、その匿名性のなかにこそ、自らの自由意志を見出していたのだった。
果たして、この女性性の神髄としての献身は、太宰という極私的なフィルターを介して顕在化した独自のロマンティシズムにすぎなかったのか、あるいは普遍的な真理なのか。いずれにせよ、このような女性の本質に照らした時、今まさに冥界の使者としての使命を裏切り、エロスに狂おうとする高須もまた、断罪を免れることができなくなる。
数枝の最後の叫びに耳を傾けてみよう。
「冷く、むごいのは、あなたたちだけだ。どん底に蹴落すのは、あなたたちだ。負けても、嘘ついて気取っている男だけが、ひとのせっかくの努力を、せせら笑って蹴落すのだ。」
さちよを救おうと、いかに意馬心猿として立ち上がろうとも、高須は破滅する運命にある。女はどこまでも精神的である――この逆説を『火の鳥』における女性観の核心とするならば、この未完の小説が目指した結末はおのずから見えてくる。さちよの「女優としての生涯」の終着駅は、チェーホフの『かもめ』のフィナーレ(つまり、ニーナの孤独な旅立ち)以外には考えられない。さちよはどこまでも、自らの肉体を求めなかった死者・須々木への献身に生き、逆に、さちよの肉体に魅入られた男たちはみな、自壊の道を辿るのだ。過去の愛欲の汚れを清算し、石原美知子との新たな結婚生活に入ろうとしていた太宰は、さちよの孤高を讃えることで、かつて鎌倉の海で死なせたさちよのモデル田部シメ子(あつみ)の霊へ、せめてもの痛切な弔いの言葉を捧げようとしていたのではないだろうか。(つづく)